こんにちは。
自分の亡きあとは、お葬式とかお墓とか特に何もいらないと思っているぶきっちょです。
この度、父の出身地である福井の旅に行ってきた。
メインの目的はお墓参り。
ひとり旅の時を含めて、福井に行くのは3回目だ。
今回は、もうすぐ三十路を迎える独身女が、先祖のお墓参りをして感じたことを語っていこうと思う。
「お墓参り」がピンと来ない
東京で生まれ育った私が、父の出身地である福井に初めてお墓参りに行ったのが去年のこと。
その墓には、父方のじーちゃんばーちゃん、ひいじーちゃんばーちゃん、ひいひいじーちゃんばーちゃん…と先祖が代々眠っている。
両親は毎年欠かさず行っているのだが、私は昨年まで行こうと思ったこともなかった。
なぜかというと…
「お墓参り」という行為がピンと来ないのだ。
人は、亡くなったら無になると私は思っている。
だから、お墓に行ったところでその人はいないし、それでも行う「お墓参り」は、「そうするものだから」という儀式としてしか捉えることができない。
そもそもお墓参りってやる必要があるのだろうか?なんて思ったりすることも。
それなのに去年から一緒に行き始めたのは、父が生まれ育った場所を見たくなったから。
つまり、単純に自分のルーツが知りたくなったのだ。
父が生まれた福井県。育った家を訪ねる。
父は大学に進学のために上京するまで、ずっと福井に住んでいたという。
その後実家が関西圏に引っ越しをしたため、私が祖父母宅として知っているのは関西の方の家だけだ。
元・父の家は現在、仲が良かったというご近所さんが引き継いで暮らしている。
今回は、お墓参りの前に、その家に立ち寄ることになった。
「暑かったでしょー。あがってあがって」
少しも嫌な顔を見せずに、歓迎してくれるおばーちゃん。
古き良き昔の家、って感じだ。
父の勉強部屋だったところも見せてもらった。
「懐かしいなー」
としみじみする父。
私は大人の父の姿しか知らないが、当たり前だけど小学生時代も中学生時代もあって、ここで遊んだり勉強したり、おじーちゃんおばーちゃんに怒られたりもしてたんだな…、と思うと不思議な感じがする。
そこにあるのは、父が母と知り合う前の時間。
私が生まれる前の、認知できない世界。
でも確実に存在していたらしい世界。
私のルーツ。
今の私も、未来の誰かのルーツとなるのだろうか。
なんて思った。
遠い親戚に会う。田舎の文化を感じる。
去年と同じく、遠い親戚にあたるおじーちゃんにも会った。
家に呼んでくれたのでお邪魔すると、お茶菓子がこれでもか!と出てくる。
おじーちゃん家族と福井弁で昔話に花を咲かせる父は、本当に楽しそうだった。
別れ際、やはり去年と同じく、畑で採れた無農薬の野菜をこれでもか!といただくことに。
ギブ&テイクという言葉があるが、両親を含め、私の周りの人たちは本当にギブばっかりしているように見える。
それに比べ、私はもらってばかりだ。
そろそろ私のターンだよね、とか感じながらおじーちゃんちを後にした。
立派なお寺と、先祖代々のお墓と、私。
会う人に会った後、ついにお墓参りに向かう。
我が家のお墓は、大きく立派なお寺の横にあった。
墓石にはそこで眠る人々の名前が彫ってある。
手を合わせながら、こんなことを思う。
結婚して姓が変わったら、違うお墓に入るのかな。
このまま独身だったら、入るのはこのお墓なのかな。まあ、骨は海に撒いてもらってもいいけど…。
でも、独身のまま私が寿命で亡くなったとしたら、誰がこの墓に入れてくれるんだろう…。
何にせよ、ここから見える福井の景色は素敵だな。
ここに入ったら、眠っている家族たちと、一緒にこの景色を見る感じになるのか。
それも悪くないな。
お墓から見える青空と緑の山々が綺麗すぎて、普段だったら絶対に考えないようなことを想像してしまった。
お墓参りは必要か?
今回の体験を通して、今まででピンと来なかったお墓参りが、私の中で少し変わってきた。
お墓を守る、お寺の住職さん。
定期的にお花を供えたり、お墓を綺麗にすることに使命感を持って取り組む、遠い親戚のおじーちゃん。
年に一回の帰郷を楽しむ父。
故人がこの世にいた物理的な証となっている墓石。
彼らを思い出し、祈るための時間。
「お墓参り」という行為には色んな要素があり、その裏では、色んな人がそれぞれの思いを抱えて、様々な形で関わっていた。
私にとっての「お墓参り」は、墓石の前で先祖に感謝の念を伝えることで、「彼らがあって自分が今ここにいる」という自己の存在を再確認する行為だ。
それはもはや必要・不必要なんていう感覚ではなく、自分にとっては大切な行いであると感じた。
まとめ
お墓については、今後誰が継いでいくかという問題もあるし、経済的な理由でやむを得ず墓じまいをする、という選択もあり得るだろうと思っている。
ただ個人的な感情としては、私の第二の故郷ともいえる福井のこのお墓は、これからもここにあって欲しい。そう感じている。